ハルステッド法の手術痕に苦しむ女性 コンプレックスを乗り越えて
私は介護の仕事をしています。
今は施設の管理者として、介護職や看護師、その他の職員を指導する立場にあります。
そんな私がまだケアマネジャーとして仕事をしていたころ、乳がんにまつわるひとつの出会いがありました。
ケアマネジャーとは、自宅で生活する「介護が必要な高齢者」に、介護サービスなどを調整する役割の仕事です。
例えばヘルパーさんに来てもらうとか、デイサービスに行ってお風呂に入るなど、必要なサービスを考え、提供してくれる事業所を用意するのです。
そんなある日、ひとりの女性の支援依頼が入りました。
とてもおしゃれな女性との出会い
初めての顔合わせの日、事前に聞いた住所を訪れると、そこには今風のきれいなマンションがありました。
マンションのエントランスはオートロックで、インターホンを鳴らすと開けてもらえる仕組みです。
緊張しつつ部屋を訪問すると、ご本人と長男が出迎えてくれました。松尾さん(仮名)というお名前です。
80代の女性には珍しく真っ赤なセーターを着て、ピアスやネックレス、そして少し色が入った眼鏡と、おおよそ介護が必要な高齢者とは思えないおしゃれないでたちでした。
話し方もとても上品で、若い頃は家事や育児で家庭に入っていたものの、40代頃から着物のセールスの仕事に就き、展示会のために全国を飛び回っていたとのことでした。
おしゃれで上品なのは仕事柄の影響が大きいんだなと合点がいきました。
これからの生活について話しが及ぶと
「とにかく人が好きな性格なんですが、僕と同居するために田舎からこちらに引っ越しさせたばかりで、なにぶん知り合いがいないんです。
それにお風呂もひとりで入れるのが不安で」
とのことでしたので、デイサービスの利用を勧めました。
デイサービスであればいろんな方と交流する機会が持て、お風呂も介護職が支援してくれます。
すると、突然松尾さんの表情がくもり
「お風呂は家でひとりで入るからいいわ」
と答えました。
「いや、せっかく行くんだからお風呂も入れてもらいなよ、ひとりでなにかあったら、俺助けられないじゃん」
長男が言いましたが、松尾さんは頑なに拒否します。
その日は無理強いせず、とりあえず人との交流を楽しむ目的で、デイサービスを利用することになりました。
お風呂に入りたくない理由は?
デイサービスの利用が始まり、松尾さんは人との交流を存分に楽しまれていました。
毎月自宅を訪問し、感想を窺うとずいぶんと喜んでおられるのがわかりました。
私と松尾さん、その長男との関係も徐々に深まり、いろんな話しをするようになっていきます。
3ヶ月目に入った頃でした。
「松尾さん、デイサービスでお風呂に入るの、どうして嫌なんですか?
自宅のお風呂もいいですけど、デイサービスならまるで温泉みたいなのがあるから、たまには気分転換で入ってみるのもいいんじゃないですか?」
と尋ねると
「デイサービスのお友達はみんな勧めてくれるのよ。
本当に良いお風呂みたいね!」
とのお返事。
「だったらどうして??」
そう重ねると、松尾さんは少しずつ話してくれました。
「実は私、40代の頃に乳がんになったのよ。胸が片方なくてね。
それに手術痕がひどくて、人に見られるのが嫌なの。
胸がないのは仕方がないしそこは我慢できるんだけど、手術痕から浸出液が出てるから他の人に嫌がられそうでね。
だから入りたくないのよ」
松尾さんの時代、乳がんの手術はハルステッド法が標準的な手術でした。
ハルステッド法では乳房全部(皮膚を含む)に加えて、大胸筋と小胸筋を切除し、腋窩リンパ節と鎖骨下のリンパ節を郭清します。
根こそぎ切り取ってしまうので、手術後の傷跡がひどい状態になります。
人によってはかなりの歳月が経過した後も、傷跡から浸出液が見られたりすることがあります。
元来おしゃれな松尾さんは、そのような容姿を人に見られることに、非常に抵抗があったのでした。
長い間、自分の身体にコンプレックスを抱えて生きてきたのです。
人との信頼関係でコンプレックスを乗り越える
お風呂に入りたくない理由が、乳がんで変わってしまった容姿であることを知り、私は次のような提案をしました。
「松尾さん、もしよかったら、みなさんが入り終わった一番最後、誰も入っていない状況で入るのはどう?」
でも松尾さんは
「職員の人にも見られたくないもの」
と答えました。
やっぱり嫌だよなぁとあきらめかけたのですが
「でも、辻本さんが一緒なら入ってみてもいいかも」
と話してくれました。
辻本さんとは、松尾さんが一番気に入っている女性の介護職員でした。
松尾さんにとって、辻本さんは自分のことを理解してくれている、信頼できる存在でした。
そんな辻本さんなら、自分の一番のコンプレックスである傷跡を、嫌な顔をせず受け入れてくれるかもしれない、と思ったそうです。
その後、松尾さんはデイサービスでお風呂に入るようになりました。
「入ってよかったよ!!」
笑顔で話してくれた姿が忘れられません。
何十年も抱えてきたコンプレックスが、人との信頼関係で少し癒されたのだろうと思います。
私としてはお風呂に入れるかどうかではなく、乳がんの手術痕の苦しみから少しでも解放されただろうことが何より嬉しかったのです。
もうお亡くなりになりましたが、この仕事の喜びを私に与えてくれた出来事でした。
松尾さん、ありがとうございました。
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